08 「少女の夢、青年の杖」
……ね、おしえてあげる。
パパとママはやさしい人。そして、おしゃべりとりょうりがすきな人。とくにパンをやくのがとっても上手で、だから、かぞくになって、小さなパンやさんを、二人でひらいたんだって。ずっとゆめだったんだと、パパがうれしそうにはなしてくれた。
そのことを、今でもおぼえてる。
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「西の森に、行ったんだと思う」
青年が目を伏せながらそっと呟いた。左右で長さの違う赤い髪が、いたずらに揺れる。考えが甘かった、と。悔いるような声色で呟くと、ラプンツェルの方に視線を投げた。
「話をしたんだ。西の森で、怪物に襲われたって。…あの子、歳の割に西の森に詳しかった。本当は、あの辺りの出身なんじゃないの?」
ラプンツェルの瞳が見開かれ、息を飲むような気配がした。逡巡するように緑の瞳が揺れる。
「……西の森は、アモの故郷なの。アモの…ご両親が、今もそこに住んでて、でも」
「外見に変化が出たから、あの子だけそこにいられなくなった?」
ラプンツェルの言葉を継ぐように青年が言葉を紡いだ。それにラプンツェルが頷くと、青年は何やら思案顔で黙り込む。アプフェルはその白い横顔をじっと見つめていたが、不意に彼がアプフェルの方を振り返った。自分と同じ、ブルーベリージャムのような紫の瞳。揺れる赤い髪。記憶など無いはずなのに、見れば見るほどこの青年は、全くの他人とは思えない。一瞬跳ねた肩は、まるでドッペルゲンガーを見たような、そんな不思議な心地だった。
「りんごちゃん」
「へ?」
「えー…なんて言ったらいいのかな……あー…君も、そういう経緯で?」
「…?」
「いやぁ……うーん、やっぱりなんでもない、気にしないで」
りんごちゃん。それは自分のことだろうか?と首を捻る前に、ラプンツェルがこくりと頷いた。青年は目をそらさないままアプフェルをじっと見つめたあと、曖昧に言葉を濁す。
「話を逸らしてごめん、それで……もし西の森にあの子が行ったとしたならば非常にまずいんだ。あの子がというより、怪物化の進んだ怪物が行くのがまずい。とりあえず確認しておきたいんだけど、君たち……は、騎士団の動向についてどこまで知ることが出来る?」
それは、と。青年の問いに答えかけたラプンツェルを制するように、鋭い声が遮った。
「そんなこと知って何になるのかしら」
声の主はエマニュエルであった。下がった部屋からいつの間に戻っていたのか、赤い衣を揺らしながら椅子に腰掛けている。テーブルの上はめちゃくちゃだったけれど、不思議なくらい落ち着いた様子でじっとこちらを見つめていた。
…こちらを、というよりは、青年を。
「アモの話と怪物化の話、それから西の森、……そこからどうして騎士団が出てくるの?」
エマニュエルがゆっくりと首を傾ける。青年が一瞬、息を飲む気配がした。
「…ラプンツェル、貴女の右目で西の森を視てもらってもいい…?もし本当にアモがそこにいるなら、迎えに行ってあげないと」
「分かった!エマはどうするの?」
「エマはちょっとこの人とお話があるから。キールも、内部の確認が終わったらそっちに行くと思う。アプフェルは、ラプンツェルと一緒にいて?」
「うん」
ラプンツェルの行こ、という言葉にアプフェルはこくりと頷いて見せた。けれど手を引かれて部屋のドアをくぐる瞬間、アプフェルは青年がほんの少しだけ笑っているのを、確かに見たのだ。
そしてこちらに、一瞬目配せをしたのも。
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「あなた、一般人じゃないでしょう」
後ろからかけられた剣呑な声に、青年はゆっくり振り返った。先程よりも燃えるような赤さを湛えた双眸と目が合う。
それはまぁ、あれくらいで倒れるんだから普通ではないかも、と。茶化したように肩を竦めると、赤い瞳にキツく刺し抜かれた。あぁ、見覚えがあるなぁと、ぼんやり思いながら観念して彼女に向き直る。
「叙任式の時と髪色が違うから、すぐには分からなかったけれど。…その顔、エマは見覚えがあるわ」
エマニュエルの影から、音もなく何かが這い出てくる気配を感じた青年は、思わず一歩下がった。
「…奇遇ですね、俺も貴女の顔はよく存じております。…だって彼奴に、数え切れないほど写真を見せられたからね」
にこ、と笑いながらそう告げると、エマニュエルの顔が如何にも不快ですというように歪められた。薄い唇が何やら呟いたように見えたが、青年にはよく分からなかった。先程からこちらに近寄ってくる「何か」が、どんどん数を増やしていることにやや冷や汗を流しながら、彼は脱出のための経路を頭で探る。生憎窓はないが、この場所の性質上、出入口以外の一切の動線が無いとは考えられない。再び一歩下がった踵に、カーペットの継ぎ目が引っ掛かる。…継ぎ目。
下か。そう思い至った瞬間、目の前に白い何かが割り込んだ。
「…っ!」
間一髪、反射で仰け反った首元すれすれに鋭い風。何かが、割り込んだ白い「何か」が、間違いなく急所を狙ってきたことを認識した瞬間、選択肢も時間も、もう僅かしか残されていないことを悟った。
「やっぱり貴方……」
エマニュエルの表情が変わる。薄い氷の膜越しでも分かる、それは明らかな「警戒」、そして「敵意」の表情であった。はぁ、と吐く息は白く染まり、ぐんと温度を下げた外気に赤い髪を遊ばせながら。
「一体何の御用かしら?ヨハネス騎士団奉使長──ラファエル!」
がつん!と、氷の向こうから激しい打撃音が何度も響き渡る。先程の白い「何か」が、侵入する寸前で展開した結界…薄氷の壁に向かって体当たりを繰り返しているのだろう。その「何か」は決して舐めてかかってはいけない、と、騎士団に所属する者なら誰でも知っていることだ。そして決して、決して、背中を見せてはいけないということも、安易に攻撃してはいけないということも、青年は、──ラファエルは痛いほど理解している。
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部屋を出たアプフェルは、ラプンツェルと共に幾つか階層を下り、やはり見慣れない小さな部屋に一人で待機していた。ラプンツェルは先程、倒れた本棚を戻してほしいと声がかかり、呼びに来た二人組と別の部屋に駆けて行った。アプフェルに「戻るまでこの部屋にいてね」と念を押して。
この部屋には、大人でも余裕で通れる程度に大きな窓が一つと、部屋に合うほどの小さなテーブルと椅子が二つ、更に奥を見やるとクローゼットのような背の高い家具がいくつか誂えられていた。整えられてはいたが、誰かが普段過ごしているような気配は感じられない。少し色褪せた臙脂のカーペットの上を移動し、部屋をぐるりと見回してみたが、特に気になることも、先程のような映像の濁流に飲み込まれることも無かった。
手持ち無沙汰に家具を見て、床を見て、壁を見て、それから。天井を見上げてみれば、吊るされた小さなランプシェードがゆらりゆらりと揺れていた。……ふと感じた違和感に首を傾けてみると、その周りが光の当たり方で影を変え、ランプシェードを中心に四角く囲んだ溝があるように見える。
「…?」
なんだろう。再び首を傾けるとその溝は消えてしまう。光の加減は中々難しい。もう一度と首をまた傾けるが、ランプシェードが先程よりも強く揺れるのみだった。
……ランプシェードが、揺れている?
わたしは、揺れていないのに?
──天井が揺れている?
その時であった。ガタガタと突然激しく揺れ出したランプシェードごと、四角く囲まれた天井の一部が、土埃と共に大きく下に向かって開いたのである。反射で後ずさったアプフェルの目の前を、大きな何かが通り過ぎた。
アプフェルの瞳は、その穴から落下してきた何か…人の形をした「それ」を確かに捉えていた。それは落下の最中にアプフェルの方を一瞬見たかと思えば、空中でくるりと器用に体を捻り、まるでアプフェルを避けるように綺麗に──とはいかず、アプフェルを避けたものの些か不自然な体勢で床へと着地する。
土埃で視界が悪い中、ややあって美しい白いものがふわりと舞い上がる。軽く羽ばたいたように見えたそれが、土埃を視界の外へと押しやった。
「…お兄さん?」
「やぁ、また会ったねりんごちゃん」
にっこりと笑いながら立ち上がったのは、先程まで共にいた赤い髪の青年であった。所々を土埃で汚しながらも、美しく白い翼をはためかせてアプフェルの方へ向き直る。窓から射し込む光を受けて、いっとう美しく、優雅に揺れるそれから、アプフェルは目を離せない。
自分は前にも見たことがあるのだ、このように美しい、白い翼を。木漏れ日の粒をめいっぱいに受けて、きらきらと輝く、翼を。…天使の証である翼。その翼が生む柔らかな風も感触も、確かに覚えがあるのだ。
覚えが、あるの、だが。
「りんごちゃん?」
「あ」
黙りこくったアプフェルを不思議に思ったのか、青年がアプフェルの顔を覗き込んでいた。右頬に感じた冷たさは、彼の両手を覆う黒い手袋で。そのまま指先はアプフェルの頬を伝って顎先に、つい、と顎を持ち上げられると、青年は再び人好きのする笑みを浮かべて首を傾けた。
「う~ん…やっぱりなんか……」
「……えと、」
「あ、急に触ったりするのはマナー違反だね、ごめん!」
ぱっと手を離しながら悪戯っぽく笑って肩を竦めた彼に、アプフェルは慌てて言葉を続ける。
「あの!お兄さん、前に、わたしとお会いしたこと…ありますか?」
「え?うーん、多分無いとは思うんだけど、八龍城の子なら見たことくらいはある……のかも?」
アプフェルの問いに、青年はうーんと考える仕草をして、ゆるやかに首を横に振った。そして徐に天井を見上げると、ゆっくりはしてられないかな、と呟く。
「ごめんねりんごちゃん、俺ちょっともう行かないとまずいみたい。まだ話したいことはあるんだけど……あ、そうだ」
青年が何かを言いかけて、思いついたかのようにポケットを探り出す。そしてアプフェルの手──とは言えパペットに包まれた木なのだが──を取って、少し重さのある何かを握らせた。
「……これ、"忘れていく"から、届けに来て?」
アプフェルが手の中を覗いてみると、それは鈍い金色をした、懐中時計であった。つるりとして滑らかな丸いそれをじっと一度見つめて、再び青年の顔を見上げる。アプフェルの目線に合わせて腰を折った青年が、にっこりと笑った。
「お届け…ど、どこに?」
アプフェルの問いに、青年が答えることはなかった。二人の頭上、ちょうど真ん中を割くように何かが落下してきたのだ。青年が後ろに飛び退く。赤い残像を伴ったそれから、弾かれるように白い何かが飛び出し、アプフェルを守るように陣取った。はっとして前を見れば、赤い残像…エマニュエルが、アプフェルに背を向けるようにして立っている。その肩越しに、窓枠に足をかけ、逆光を背にして柔く笑う青年が見えた。
「それじゃあまた!」
そして一瞬の瞬きの後、青年の姿は、まるで夢のように窓から消えた。
幾らかの、柔らかな白い欠片を残して。
揺蕩う真白な羽根と、アプフェルが立ち尽くす目の前で、エマニュエルがはぁ、と大きなため息を吐いた。
「…エマ?」
「……ラプンツェルは?一緒じゃないの?」
「えっと、さっき……」
「ただいまおまたせアプフェ……って、え?何これぇ!埃だらけじゃん!」
エマニュエルがアプフェルを振り返ったのとどちらが早いか、部屋のドアが勢いよく開き、件の人物……ラプンツェルが長い髪を揺らしながら現れた。部屋に入るなり、土埃だらけの惨状にうげげと顔を顰める。ぱっぱっと顔の周りの埃を払い除けては、部屋の中心に立っている二人の姿を見て「あれ?エマいつの間に来たの?」と小首を傾げた。能天気なくらいに軽い足取りで近付いてくる彼女に、エマニュエルはまた大きなため息を吐いたのであった。
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パパとママが、うれしそうにはなしていたのを、しっているから。だからまもらなくちゃいけないの。
でも、へんなの、へんなの。アモ、すごくからだがおもたいんだ。それにね、うごくたびに、からだからへんなおとがするの。だから、いくのがすこしおそくなっちゃうかも。
まっててね、パパ、ママ。
アモが、まもってあげるからね。
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