09 「だいすきな、パパとママへ」

「……鼠さんを逃がしたわ。面倒な事にならないと良いのだけど」


なになに?と、アプフェルとエマニュエルの顔を交互に見やったラプンツェルに、エマニュエルは首を傾げながら言う。


「…それで、アモの居場所は?」

「あっ実はまだなんですよね~…ご、ごめんって!倒れた本棚の量が案外多くて…」


エマニュエルのじとりとした視線を感じたのか、ラプンツェルは慌てたように視線をそらした。胸の前で揺れるリボンをくるくる弄りながら口を尖らせる。そしてアプフェルの方に一度視線を滑らせては、長い髪を揺らしながらアプフェルの傍に移動し、ちょこんと体を小さく落ち着かせた。

何の気なしにアプフェルが彼女の頭をちまちまと撫でると、ラプンツェルは途端に嬉しそうに顔を綻ばせる。瞬きひとつのあと、彼女の長い金髪が鼻先を掠めて、今度は自分が頭を撫でられていた。アプフェルより背の高いラプンツェルが、ほんの少し屈んで、アプフェルの耳元に額をくっつける。じんわり伝わる体温は、不思議と激しく跳ねていた心臓を落ち着かせるようだった。


ぺち。と。小さな物音にアプフェルが視線を下にずらすと、ラプンツェルの足元に何やら白いものが張り付いていた。思わずじっと見つめていると、それはゆっくり上に伸び上がり、やがて二又に分かれた頭部と、そこに収まる二つの赤い瞳──もっとも、瞳に見えただけで本当は違うのかもしれないが、少なくともその赤い何かがアプフェルとラプンツェルを見上げた。

その視線にぎくりとしたのか、ラプンツェルが慌てたようにエマニュエルに向き直った。


「…ほ、ほんとにね?今視ようと思ってたんだから、うん!」


冷や汗を流しながらも、深呼吸。徐にラプンツェルが、右目を覆う黒いそれをゆっくりと外した。


「……!」


黒の緞帳が開いたその下は、アプフェルが想像していたそれとは違った光を放っていた。普段見えている方、左の瞳とは違う色の、不思議な色。新緑のようにしか見えないはずなのに、ひとつ瞬くと桜色が咲く。瞳の真ん中、瞳孔を中心に新緑と桜色。ひとつの瞳の左右で色を分けたそれに、アプフェルは丸い瞳をめいっぱい開いて見入っていた。


きらきら光を零して、柔らかな季節をまわる、それ。木漏れ日の似合う、優しいひかり。ちかちか、きらきら。


ああ、けれども。この瞳を、わたしは知っている。

否、わたしは知らなくとも、「私」は、知っている。


「う~~ん…とぉ、……あ、え?」


アプフェルの記憶がまたひとつ静かに降り積もるのと同時に、外に向かって何やら険しい顔をしていたラプンツェルがぴく、と体を揺らした。ラプンツェルは右目の黒幕をやや忙しなく閉じながら窓際に走り寄る。窓枠に手を掛け外に乗り出しながら、ねぇ、とエマニュエルの方を振り返り、焦ったように口元を戦慄かせた。


「ど、どうしよう、エマ、アモが──」



「……なんだか妙だな」

「何か気になる点が?」

「いや、敵意は明らかに感じられるんだが…怪物にしては好戦性がないというか…」


西の森、その中でもいっとう自然が深く、豊かな木々が重なる場所。やや開けた…もっとも、この目の前の怪物が無理やり切り開いた訳なのだが、その小さな空間の真ん中で、両者は一時の小康状態を迎えていた。異常の一報を入れる指示は出してあるが、返答のまだない状況で無闇に動くことも出来ず、一定の距離を保ってその場で睨み合う。


ガブリエルの感じた違和感はもっともであった。ここまで完全に異形化した怪物とは本来、発狂して自我がない錯乱状態であって、現在のように──一定の距離を保ちつつ、静かに睨み合う、という状況は、本来起きるはずのないことなのだから。

しかし、と。ガブリエルは柄を握る力を強くした。この怪物の背中側、ほんの数十メートル離れた場所には、一般人の住む小さな村がある。先程裏から部下を回し、避難の要請はしてあるが、さすがにまだ間に合わない。完了の一報もなく、下手に刺激してこの安定した状況を壊すわけにもいかない上に、やはり相手は未知の怪物。もしもの事態に備え、陣形は崩さず戦闘態勢を維持する必要がある。加えて今回の作戦は短時間の予定であったため、本来救護や後方支援を担当する奉使部の人員がほとんどいない。ガブリエルは村の入口を示す小さな看板をちらりと見やって、再び目の前のそれを見上げた。


──定期的に、まるで呼吸のように体を揺らすそれ。頭部だと思われる部分にかろうじて引っ掛かっている、不釣り合いなほど鮮やかなピンク色のリボンが、風に揺らめいた。それはここに来るまでに少なくとも一人、恐らくは幼い少女が襲われた可能性を示唆していた。ガブリエルは、後方で待機していた部下が足音を殺して走り寄る気配に頭を逸らす。


「…兵使長、天使長から通信入ってます」

「繋いでくれ」

『──……リー?俺だ、ミカエルだ。先程はすぐに応答出来なくて悪かった。……それで?今の状況は?』


部下から差し出された小さな端末を受け取りカチリとスイッチを入れると、聞きなれたハイ・バリトンが滑り込んできた。機器越しでも聞きやすい滑らかなその声に応えるように、ガブリエルは静かに声を吹き込む。


「識別番号E-455……反応があるのはその殲滅対象で間違いないが、外見特徴的に今接敵してるのはそいつじゃない。だが発信機の反応は間違いなくここにある。この矛盾の原因なんだが、まぁ、恐らく食われたな」

『食われた、……E-455が、今接敵しているやつにか?』

「ああ。だから発信機が体内でかろうじてまだ生きてる状態で、今も……ただ、まぁそれ以外にも妙なところはあるんだよな……」


ガブリエルは手だけで部下達に下がるように指示を出す。目前の怪物は、また少しだけ動きを止めたように見えた。先を促す声に、ガブリエルは言葉を続ける。


「…好戦性が感じられない。戦おうとしていない。ただ、その場で…俺たちと睨み合っているだけだ。けど、俺たちが前に出ると身構えるし、下がれば動かなくなる」

『つまり戦闘に能動的ではないと?…こちらの出方を窺っている?』

「俺の見立てではそうだな」


ふと通信先で黙り込んだミカエルに、ガブリエルも浅く息を吐いた。


「……共食い以外にもどうやら既に一人、子供を食い殺してる可能性はあるが……帯同の奉使部も少ないし、発信機を付け直して、今回は、」


一度体勢を、と。言葉を続けようとして、ガブリエルは台詞を飲み込んだ。不自然に切られた言葉に、電波の向こうから聞き直す声が聞こえる。しかし。


「兵使長!」

「──…ッッ!」


後ろで部下が叫ぶ声と同時に、その場が眩い白に埋め尽くされた。一等明るい月の光を100日ぶん無理やり集めたような、雪原に反射した日光が瞳を焼き尽くすような──あるいは、閃光弾のような強いそれが、視界を一瞬で奪う。


咄嗟の反射で目を閉じ、体を屈めたガブリエルは、状況の把握のために素早く周りの気配を感覚だけで探る。…地面には僅かな振動、訓練されていない、素人の靴音。似つかわしくない柑橘の香りと、ふわりと動いた風向き。

第三者の介入があったことを察するには、十分すぎた。


「…教会か、それとも…」


よく訓練された体は、閃光弾の光にすら順応が早い。視界を閉じてから一拍、開いた瞼の近くで動いた何かを、ほぼ反射で鞘ごとベルトから引き抜いた剣で薙ぎ払った。


「…へっ?」


想像より数段高い、子供のような気の抜けた声と同時に、これまた想像より軽い感触が右手に伝わる。閃光弾とともに焚かれたらしき真っ白な煙の中、鞘に収まったままの剣に押されて倒れ込んだ何かを、そのまま左手で掴もうとして、華奢すぎる感触に気付いた。子供だ。立ち込める煙と光の中、この場に現れたのは子供だった。一瞬逡巡したものの、すぐに思い直してその場に取り押さえる。……無論、つとめて優しく、ではあったが。


「…!………、…!」


遠くで何かを呼ぶ声が聞こえた。他の団員達とは明らかに違う、高い少女めいた声だった。恐らくこの眼下の少女を呼んでいるのだろう、足音に掻き消されよく聞き取れなくとも、焦りが滲んでいることは分かる。


煙が少しずつ晴れていく。ぱちりと瞬きめいっぱい見開いた菫の瞳、そして白い額を覆う乱れた赤い髪が目に入った瞬間、ガブリエルは息を飲んだ。


「…ファル?」



「どうしようエマ、アプフェルが…!」

「大丈夫、アプフェルはデデドンに探させる、ラプンツェルはアモを探して!」

「で、でもッ」

「エマが大丈夫と言えば大丈夫だわ!行って!」


一度足を止めたラプンツェルだったが、エマニュエルの言葉に、再び走り出した。


「デデドン、アプフェルの匂いは分かるわね?…探して!」


そして二度目のエマニュエルの言葉に、白い妙ちきりんな生物が一匹、煙の中に姿を消した。



「……アモ!返事して……!アモエル……ッ」


聞き覚えのある声に、アプフェルは反射的にそちらへ顔を向けた。その視線を追うように、覆い被さる青年も視線を上げる。まだ煙の晴れきらない不透明な視界の中、彼女のきらきら輝く金髪がカーテンのように揺れるのがうっすらと見えた。あ、とアプフェルが声を零すより早く、目の前の青年が再び視線を戻した。マゼンタの強い瞳。肩口からはらりと落ちた藤色の髪が、アプフェルの目の前で揺れた。…肩越しに眩く見えたのは、真白な一対の翼。


「ファル」と、アプフェルに向かってそう言った天使の青年は、一瞬困惑したように眉間にシワを寄せたが、すぐにため息を吐きながら上体を起こした。


「…悪いな、痛かっただろう?立てるか?」

「…えっと、わたしは…お平気、です」

「どこの者かは知らないが、早く遠くに避難した方がいい。…向こうにいるのは知り合いか?なら流れ弾食らう前に…」


青年がアプフェルの手を取ろうと立ち上がったその時、貫くような鋭い声が響いた。


「やめて!だめ!動かないで……!」

「……ラプンツェル?」


アプフェルは声の方に振り返った。ラプンツェルが何やら遠く…と言っても視界にはかろうじて留まる距離ではあったが、煙で視界の悪い中で、何に話しかけていた。後ろから青年に肩を引かれる。金属が擦れるような音。慌ただしく響く、硬い足音。悲鳴。そして、ざわめき。

誰かの名前を一心に叫ぶ声が聞こえる。


「……お前ら、まさか八龍の…?」


後ろから投げかけられた小さな呟きを、アプフェルは拾えなかった。

代わりにアプフェルの耳に滑り込んで来たのは、親友の切羽詰まったような叫びで。


「アモ!私だよ、ラプンツェルだよ!危ないからもう…戻ろう?キールだって、エマだって…アプフェルだって、心配してるんだからッ」


ラプンツェルの声に反応したのか、怪物は緩慢に動きを止める。まるで少女が首を傾げるような、あどけない動作だった。哀れな少女の名前に、まるで覚えがあるかのように、何度か首をくるくると回す。


…視界がゆっくりと晴れていく。


アプフェルは初めて「それ」を見て、まるで樹木のようだと思った。

けれども、樹木よりは丸く、歪に波打つ外皮、突き出た異様に華奢な脚部、きょろりと回る眼球のような、果実のような、てらてら光るモノをいくつも体に埋めた「それ」は、明らかに──生き物である、と。時折体を震わせる「それ」の端々には、見覚えがあるような布切れが絡まっていた。漂いはじめる、異様な臭い。思わずぱかり、と開いた口が、閉じられない。

周囲のざわめきが、息を飲むものに変わる。


不意に後ろにいた青年が、先程よりも強い力でアプフェルを引き寄せた。え、と思った一拍の後、青年はアプフェルの前に庇うように立ち、そのままアプフェルの頭を抱えるようにしてその場で姿勢を低くする。アプフェルが抵抗せず膝を地面にくっ付けると、青年の首から下がる細身の黒い布と白い布地の隙間に、金色の後頭部が見えた。ラプンツェルだ。


そしてラプンツェルが見ているであろう、その視界の向こう。

──怪物の後ろで、鈍色の何かがちかり、と光った。


「……ッ!だめ!!」


ラプンツェルが叫ぶよりどちらが早かったか、鋭い銃声が響き渡った。……そこからは、まるで、スローモーションのようで。


一瞬揺れて動きを止めたそれが、ゆっくりと振り返る。瞬間、二回、三回と、銃声が続いた。木の皮のように脆く剥がれた、皮膚のような何かが地面に落ちる。ぱらり、ぱらりと。ぽた、ぽたりと。血と言うには冷たく、鉛と言うには温かい色の、液体が。流れ落ちて、崩れ落ちる。


───ァ、ギ、ィ…ア"ァ"───…ッッ!!


銃声が、もうひとつ。

「それ」がその場に倒れ伏すのと同時に、体中から液体が零れ落ちた。最後の銃弾が命中した、目のような部分からどろり、どろりと、溶けきった臓器のような、腐りきった果実のような、粘着質の液体が溢れ出る。ぐちゃりと、それが苦しげにのたうつ度に、切り裂くような断末魔と不気味な粘着音が鳴り響き、内側から崩壊するように体がぼろぼろと崩れ落ちていく。

揺れていたはずのピンクのリボンが、異様な色の液体に滲んで、沈む。


「なんで撃ったのッ!!!なんで……!あの子はアモエルだよ!村を守ろうとしてた!守ろうとしてたのに……!!」


ラプンツェルが銃を撃った人物に駆け寄りながら叫ぶのを横目に、アプフェルは倒れ伏してそれきり動かなくなったそれから目を離せないでいた。外皮が剥がれて開いた穴からどろどろと絶え間なく流れ続ける奇妙な液体と、それに浸って色を変えていく布の切れ端。…アプフェルにだって覚えはあったのだ。薄い桃色の、少し泥で汚れた可愛らしいワンピースを。おそろいだね、と、背中を見て幼気に笑ったその顔を。軽快な音を響かせていた義足を。彼女が体を揺らす度に、軽やかに揺れていたリボンを。


彼女は、望まぬ体の成長を遂げてしまった。


ただ、故郷に迫る「怪物」から、大事なものを守るため。望まなかったが強く臨んで、毒で毒を制した、…そのはずだったのだ。

不意にがしゃんと、何か固いものが落ちる音がした。見ると、ラプンツェルに肩を掴まれ揺さぶられる男性──銃を撃った人物の足元に、細身の長い銃が転がっていた。へなへなと力を失ってその場に崩れ落ちていく様は、先程の"それ"ととてもよく似ていた。…本当に。柔らかそうな蒼色の髪まで、そっくりで。


──ああ、父親なのだと。

アモエルの最期の命を屠ったのは、紛れもなく血を分けた、彼女の実の父親だったのだと。

泣き叫ぶ声と嗚咽に塗れた空間で、アプフェルは不釣り合いにも冷静に、その鮮烈で残酷な事実に気が付いてしまったのだった。

苦悩の林檎

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