06 「記憶を雫に閉じ込めて」


それは今からずっと昔の話で、太陽と月がずっとずっと若かった頃の話。光は炎、闇とは夜であった頃。


この国を生み出した創造主である「陛下」が国を治めていた時代。

この頃、まだ天使と怪物は表立って争っていたわけではなかったけれども、天使は怪物を避け、結果として表向きは棲み分けが出来ていた時代であった。それでも天使は心の底では怪物を嫌悪していたのもまた事実で。決定的なきっかけさえあれば、この関係性はいつだって崩れるということは明白だった。


当時の怪物は皆、全て恐ろしく悍ましく醜悪な外見をしているのが当たり前であった。怪物には理性など存在しない。気の向くままただただ天使を蹂躙し、時には怪物同士での共食いすら起こす、極めて野蛮な存在である、と。


さてこの時代、国の全ては陛下が決め、それを陛下の傍に侍る「教会」の者達が広くに知らせ、そうやって国は長い間美しく正しく統治されてきた。陛下は全ての天使の親であった。慈悲深い存在だと信じられていた。だから、天使達は陛下に何度も「怪物の排斥」を訴える。理由なんて凡そ何でもいい。ただ自分たちが襲われる恐怖から逃げたいでも、悍ましいその姿を見たくないでも、なんとなく気に入らないでも。陛下は天使達の主であり父でもあるのだから。子が頼めばきっと、陛下は救ってくれると信じて。


けれど陛下はその声に応えなかった。


どんどん天使が死んでいく。大人も子供も男も女も老いも若いも関係なく、怪物は天使を食い荒らす。小さな町も、大きな村も。


そんなある時、一人の青年が陛下の御前で伏して、嘆願した。今から200年ほど前のことである。


「怪物を傷つけたい訳では無い、守るために武器が欲しい」


と。

するとどうだろうか、陛下はその嘆願を聞き入れたのだ。傷つけるためではないと言ったから。守るためだと言ったから?争うことを望まない陛下は、彼の言葉に揺れ、遂に恵みをもって返礼としたのである。


そして青年の願い通り、怪物から身を守るための武器を彼に与えた。天色と金糸雀色に眩しく光る、透けるように美しい一振の剣を。自らの武器であったその剣を、青年に与えたのであった。青年は再び伏して喜び、陛下へ惜しみない謝意と賛美を述べた。


しかし青年が剣を手に入れたことにより、国のバランスは崩れ始める。砂の城が崩れるかのように、足元から崩れたそれ。例えそれが塔に戻ったとしても、もうかつての高さに戻ることは出来ない。

各地で抵抗する怪物による大規模な事件が起こった。怪物に理性はないと言っても、それが生き物である限りは生存本能があるわけで。襲われるなら、攻撃されるなら。ならばそれ以上の力をもって抵抗し、捩じ伏せるしかない。まさしく負の応酬とも言える抵抗戦。血で血を洗うような、不毛な白兵戦。


そしてついに決定的な事件が起こる。


赤い髪の少女が、陛下の治世を崩そうと、クーデターを起こしたのだ。彼女は人のかたちをした、当時はありえない姿の怪物であった。けれど怪物であったから、怪物を弾圧する天使を、そしてそれを認めた陛下に反旗を翻したのである。

陛下が討たれんとしたまさにその一瞬。

現れたのはかの青年、陛下に嘆願し、剣を賜った青年であった。彼は見事に赤髪の少女を討ち取り、再び国に平和をもたらした"白の英雄"とされている。




「昔のことだから、誰が見た訳でもないし、本当かどうかなんて分からないけど。今はこれが通説で、学校でもそう習う。国民みんな、それが本当だと信じてる」


でもそういうものなのよ、と、エマニュエルが面白くなさそうに呟いた。ラプンツェルが続ける。


「それから今まで200年間、赤い髪の人はその時の"赤髪の少女"の末裔だって言われてて、だから……ちょっと、国の中だと敬遠されるっていうか…」

「不吉の象徴、とかね。言われてるけれど」


今から200年も前のことだ。エマニュエルの言う通り、誰かが直接見たわけではないし、だから本当かなんて分からない。ただみんながそう言うから「そう」なのだと。決しておかしいことを言っているわけではないのだけれど。


「アプフェル、あんまり深く考えなくていいよ。きっと何が正しいなんて、誰にも分からないのだから」


エマニュエルが紅茶に口を付けながら首を小さく横に振った。


「とにかく今一番伝えたいことは、ここが……八龍城が、怪物達のための組織で、エマ達はアプフェルと同じ、全員怪物だということ。それから、アプフェルの髪色は、ちょっと特別ってこと。それだけ」


エマニュエルの言葉を聞きながら、アプフェルは目の前に置かれた琥珀色を眺めた。先程と同じく透けた赤色が映るけれど、やや温かさを欠いた水面は静かに凪いでいる。凪いだ水面に、不意に金色が映りこんだ。アプフェルが顔を上げると、隣のラプンツェルが何やらキルヒエルに話しかけているようだった。立ち上がって身を乗り出した彼女の肩から滑り落ちた金糸が、陽の光を浴びてきらきらと輝く。

ラプンツェルの背中の向こう、半円形のアーチ窓から差し込んでいる陽の光。急角度で差し込むそれは、夕暮れ特有の眩さを孕みながらも、どこか物悲しい。夕の光に包まれて笑うラプンツェルの顔は、逆光でよく分からない。


目の端で翻った新緑の衣。懐かしい香り。陽の光を浴びて輝く、金の長い髪。

視界が歪む。景色がぐらぐら揺れて、窓のアーチがひしゃげて曲がり、生まれた亀裂から堰を切ったように溢れ出す光の粒が、アプフェルの意識を攫っていく。それはまるで白い濁流のようで。頭の奥底にある記憶のベッドを、大きく揺さぶられるような感覚だった。

陽の光。そうだ、今はまだ夕方ではないし、そもそもここは室内で、しかもキルヒエルが言うにはかなり奥の部屋で。陽の光なんて届かないはずなのに。ラプンツェル。声をかけようとして、出来なかった。口は動くのに、言葉にならない。ぱくぱくと口だけを、まるで呼吸の間に合わない魚のように開閉させるだけで、言葉にならない空気は宙に溶けて消えた。


これは、これは、

なくしてしまった記憶の欠片?


「アプフェル!」


ぐんぐん視界を流れ続ける光の粒の中、キルヒエルの声でアプフェルは我に返った。琥珀色がちゃぷ、と目の前で弾ける。ランプの光を映した琥珀の粒が、重力のまま下に散らばった。時間が動きはじめる。足元が突然激しく突き上げるように揺れ、そのまま横に揺さぶられる。視界の隅で、エマニュエルが赤いスカートを翻してふらつきながらも奥に走っていくのが見えた。

突然のことに固まったアプフェルの傍で手を取ってくれたのは、大きな目を更に大きく見開いたラプンツェルで。先程までの息苦しさが嘘のようにすらすらと言葉が滑り落ちる。言いたかったこと。伝えたいと思ったこと。


「ラプンツェル、わたし、あなたのことを、みんなのことを、お知りになりたい。もっと、ちゃんと!」

「……!」


ラプンツェルの瞳に、アプフェルの顔が映り込む。思っていたよりも必死な、けれど穏やかな表情の自分。新緑の葉の上、雨雫の波紋のように広がった揺らぎ。ラプンツェルの手に、力がこもった。

足元が激しく揺れる。キルヒエルが何やら小さな機械に向かって指示を出しているが、カップとソーサーがぶつかる音、椅子が倒れる音に遮られてよく聞こえない。けれど次第に慌ただしくなっていく城内を横目に、アプフェルは初めて、一欠片の"失ったもの"を見つけ出せたような気がした。

苦悩の林檎

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