05 「レチタティーヴォ」

薄暗く生暖かい水底から浮上するように、ゆっくりと視界が明るくなった。目に飛び込んできたのは、見覚えのない白い天井と清潔そうな薄縹のカーテン。そして嗅ぎ慣れない薬品の香り。一瞬状況が分からず慌てて跳ね起きたが、しんと静まり返る空間に、彼はぼんやりと先刻までのことを思い出した。


確か、一人で歩き慣れない森を抜けようとしていた時。ふと異様な空気を感じて葉陰に身を隠すと、少し遠くに同じように身を小さくする二人の少女を見かけた。彼女たちの背には、自分と違い翼が無かったのを覚えている。自分と比べて森に慣れていないわけでは無さそうだったが、自分よりも幼い、しかも見たところ丸腰の少女達をさすがに見て見ぬふりをすることは出来なかった。異様な空気を纏う「何か」は確実にこちらに近付いてきており、このままでは確実に見つかってしまう。そう思ったのと、二人に声をかけたのは、果たしてどちらが先であったか。


そうして二人と共に妙に薄暗い森を駆け、少女の一人が身を隠せる場所を示した。長い金髪を翻した彼女が、赤い髪のもう一人の手を引き、先に隠れるように促しているのが見えて、なるほど赤い髪の方は自分と同じく森に慣れていないのだな、と能天気に考える。先程物陰に姿を隠しやり過ごそうとしていたのも、慣れない一人を無鉄砲に走らせないようにするためだろうか。かと言って森でたまたま出会っただけの二人とは思えない。金髪の少女は明らかに赤い髪の少女を大事に、それこそ長い付き合いのある友人の様に扱っている。なんとも言えない少々の違和感を抱えながらも、かなり近くまで「何か」が迫ってきていることは感じていた。


ここまで詰められたらやる事は一つだ。唯一得意と胸を張れる受け身でとりあえず体勢を整えつつ相手の視線を逸らし、神力の流れと周囲の状況を確認する。この程度で自分の神力が尽きるなんてことはまずありえないと思っていたが、神力をより効率的に使うためにもやはり地の利は重要である。幸い、この辺りは薄暗く陽の光があまり入らないようで、無数の倒木が目立つ地面や空気はしっとりと湿気を帯びていた。


「レディーファーストなのでね」


一瞬立ち止まった気配が、再び走っていくのを背中に感じながら、足元の土が、葉にうっすら残る露が、ぱきりと音を立てた。



「……運んでくれたんだ」


──その場はなんとか一人で切り抜けたものの、空腹と寝不足で力尽きた。

いい大人が恥ずかしい話ではあるが、意識を失った理由はそれしかない。変に意地と気を張っていたため感じなかった眠気と空腹に負けてしまった。ここまで運んでくれたのがあの時の二人なのか、はたまた別の誰かなのかは定かではないが、この扱いを見るに敵意は無いように思える。安堵か不安か、誰に聞かれるでもない大きなため息を吐いた。寝起きで未だによく回らない頭を必死に揺り起こし、さてこれからどうしようか、と考えてみる。


まず、ここは一体どこなのか。見たところ、視覚情報はほぼゼロだ。ベッドを囲むカーテンの向こうにも、特に人の気配は感じられない。抜け出そうと思えば出来そうであるが、ここで変な動きをして怪しまれるのは悪手だ。かと言ってずっとここに留まるのも進展がないし、何より一応は立場のある身、いつ追手が来るとも分からない。


羽織っていた黒いカーディガンの下、冷たく硬い膨らみがあることを確認し、そっとポケットから取り出す。鈍い金色、控えめなアンティークカラーに輝く手のひら大のそれ。外見はつるりとした平たくてまぁるいペンダントのようであるが、リボンを模した横の突起を押すと蓋がぱちんと開き、ちょうど蓋の裏側に精巧に彫刻された紋章が現れる。その下には、くすんだ象牙色の文字盤に、外装と同じ鈍い金色をした数字と、それから長針と短針、秒針が収められていた。音もなく規則正しい間隔で動くそれは、所謂懐中時計と呼ばれるものであった。

時計盤の空にしんと鎮座する厳かな紋章。剣と十字、そしてニンブズが美しく重なるモチーフのそれは、きっとこの国で知らない者など存在しない。


──ヨハネス騎士団。

紋章を誇らしく掲げ、国を守るために奔走する気高き者たち。真白の翼に真白の外套をはためかせ、その右手には災いを切り裂く剣を、左手には弱きを守る盾を持ち、胸には天より高い忠誠心を。


「……どうか、正しい道を」

祈るように懐中時計を額に寄せ、小さな声で独りごちた。そしてすぐに顔を上げると、ベッド脇にゆったりとひかれた薄色のカーテンに音もなく手を伸ばし、さっと開け放つ。へ、という困惑したような声と共に、蒼色の髪が風で揺らめいた。


「…んん?」

「……おにいさん、だぁれ?」


ぱちくりと明るい桃色の丸い瞳を瞬かせ、カーテンの向こうに現れた少女が首を傾ける。子供独特の、細身で未完成な身体に不釣り合いな義足と義手を携えた少女。その背に、白い翼はない。


──怪物か。

しかし、それにしても神力の揺れがやや大きい気がする。神力の多さは身体に比例しないから、彼女はもしかすると元々神力が多い方なのかもしれない。知り合いにも噛み合わない者は何人かいるし、決して特別なことではないな、と一人で納得して、少女の問に答えようと向き直る。


「俺はね、ファルっていいます。たぶんさっき、ここの人に助けて貰って……ええと、ここがどこだか、分からないのだけど」

「ファルさんっていうの?あのね、わたしはアモエルです!……それで、ここはね、八龍城っていうんだよ!アモエルたちのおうち!」


青年、もといファルがベッドから足を下ろして小さく頭を下げると、無邪気に笑った少女、アモエルは跳ね上がるようにしてちょこんとファルの隣に腰掛けた。義足でよくそんな身軽な行動が取れるものだ、と感心していると、続いた言葉にファルは動きを止める。


「……八龍城?」

「ね、ね。ファルさんは天使さんね?背中につばさがあるもんね!どうして天使さんなのに、八龍城にきたの?」

「え、と、そうだね、……さっき、長い金髪の子と、赤い髪の子と知り合って…」

「長いきんぱつ……あ!もしかして、ラプンツェルのこと?赤い髪…は、アプフェルおねーちゃんかなぁ?そっかぁ、じゃあファルさんはふたりのおともだち?」

「う~ん、友達……なのかなぁ……?あぁでも、助けてくれたから、二人は恩人ではあるけれど」

「……?なにかあったの?」

「さっき西の森でね、怖い……動物に追いかけられちゃったんだ。その時に二人とたまたま知り合って」

「……にしのもり?ね、それって、木がたくさんたおれてて、ちょっとしめしめしてて暗い、もり?」


西の森。土地勘はあまりないが、元々西に向かっていたことは確かだったので、方角的に間違いはないはずだ。しかしアモエルは、西の森という言葉にぴくりと反応した。

彼女が挙げた特徴は、思い返せばあの時の森に当て嵌る。


「うん、確かそうだった気がするなぁ」

「…………」

不意にアモエルが、暗い顔をして俯いた。ファルは首を傾け、どうしたの、と問う。

「……アモ、いかなきゃ。ファルさん、おはなししてくれて、ありがとうね」

「…?う、うん?」


軽やかにぴょんとベッドから飛び降りると、アモエルはそのまま走って部屋を出ていってしまった。


「俺、なんかまずいこと言ったか…?」



アプフェルは、目の前に置かれた琥珀色に揺れるそれを、じっと見つめていた。ふと水面に僅かな波が立ち、覗き込む自分の顔ごと濃淡が乱れる。目線を上に上げれば、ちょうどキルヒエルがアプフェルの向かいの席に着くところであった。彼女が一度目を閉じ、すぐにまた開く。湖畔を思わせる涼やかな青い瞳が、アプフェルのそれと交わりそうで、交わらなかった。

先に席に着いていたエマニュエルが口火を切る。


「アプフェル。まず、エマ達が…ううん、この国が一体どういう場所なのか、教えるわ」


アプフェルはこくりと頷いて見せ、次の言葉を促すようにエマニュエルの瞳を見詰めた。隣に座っているラプンツェルも、心なしか緊張しているように思える。


「この国には、二種類の住人がいる。一つ目は天使。もう一つは、怪物」

「天使と、怪物…」

「そう。天使は、国で一番の多数派。政治とか商業とか、普段の暮らしとか、そういう"普通のこと"を普通にする人たち。天使は神力を、自然の力に変えて日常生活に利用してるの。……あ、神力っていうのは、また別に説明するけど」


エマニュエルが言うにはこうだ。

この国には天使と怪物、二種類の住人がいる。そのうち天使は国民の大多数を占め、神力を自然の力に変えることが出来る。怪物は少数派で、神力を自然の力に変えることは出来ないが、代わりに自然外の特徴的な力に変えることが出来るという。


神力、というのは、分かりやすく言うと酸素のようなもので、国中に満ちている"気"である。これが枯渇すると、天使も怪物も行動不能になるという。天使と怪物はこの神力を、各々の型に嵌めて利用している。

この型にもパターンが存在し、天使の型は四つに分類されている。これを四元素の力と呼び、文字通り火、水、木、土の四つに分けられている。けれど怪物の型はこれに当て嵌らない。パターンを明確に振り分けることは出来ず、天使側はこれを「陛下に見放された、歪んだ力」と称するという。


「……アプフェル。一番、大事なことを言うけれど」


エマニュエルが姿勢を正した。眠たげな瞳は変わらず、しかしアプフェルの目を見てしっかりとした口調で話し始める。


「天使と怪物は、対立関係にある。天使は怪物を異端として排斥しようとしていて、怪物はそんな天使から逃げざるを得ない」

「……へ」

「…まぁ、二人を助けてくれたっていう天使の人は、違うみたいだけど。何が言いたいかっていうと、無闇に天使に近付かないでってこと」


かちゃり、とソーサーが音を立てた。ティーカップを置いたキルヒエルが、エマニュエルに変わってアプフェルに視線を移す。同時に、アプフェルの隣に座っていたラプンツェルが声を上げた。


「あの人、この辺に詳しくないって言ってた。服装の感じからしてそこまで田舎出身には見えなかったけど…都会っぽくもなかったかな。たぶん、髪色のせいかなって、思うけど……」


髪色。そう言われてアプフェルは青年の外見を思い出す。自分と同じ、赤色の髪だった。


「……アプフェルとあのお兄さん、ちょっと似てた。髪と目の色と、あと色が白いとことか目が丸くて大きいとことか……」

「あの、すごく、お顔のお綺麗な人だったよ、女の人かと、最初は思って」


けれど、赤髪だから、なんだというのか。


「……アプフェル。今、赤髪だからなに?って、思ったでしょう」

「へ」


キルヒエルが軽く首を傾げて問うた。図星をさされたアプフェルがぴくりと肩を揺らす。隣りのラプンツェルが少し俯き、エマニュエルは変わらない無表情で紅茶を啜った。


「天使、怪物。それから……赤髪。この国の分類、…いや、差別。赤色の髪を持つ者は、天使でも怪物でも差別される」


この国で一番苦しい存在。琥珀の水面に映った赤が、不安気に揺らめいた。

苦悩の林檎

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