03 「青と赤」

さて、時はその日の明け方に遡る。


国内某所、ヨハネス騎士団本部。見た目に荘厳な出で立ちのその建物も、内部に起き出している者はまだ少ない。夜明けから正味数十分、廊下は未だ夜の気配を残し、ひんやりと冷え切っている。ゆっくりと朝日が差し込む角度を大きくしていく廊下を、足早に歩く人影が一つあった。

その人影は絨毯のひかれた廊下を突っ切り、突き当たり正面、ある大きなドアの前で足を止め、ため息を吐きながらわしわしと自らの後頭部を掻き乱す。長く伸ばされた藤色の髪が乱雑に揺れた。

彼がドアをノックしようと腕を伸ばした瞬間、不意に光を遮るようにそのドアが内側から開いた。中から現れた人物は、中途半端な格好で目の前に立ち尽くした見知った顔の珍しい姿に、小さく目を見開く。


「おっと驚いた、どうした?こんな早くに」

「お前こそ早いじゃねーか、確認する書類は昨日全部終わったって言ってなかったか?」

「別に急ぎの仕事がなくたって早起きくらいするさ!今日はゆっくりモーニングコーヒーでも飲んで、貯めていた本を読もうかと思ってな」


そう言って気障な笑みを浮かべた彼は、閉じたドアに寄りかかるようにしてゆったりと腕を組んだ。時間は未だ早朝、起き抜けとは思えないほどきっちりと整えられた艶やかな黒髪に、男性としての華を感じる、役者のような端正な顔立ち。左右色違いの涼やかな瞳がすっと細められ、そのまま怪訝そうに首を傾げた。


「に、しても、ガブリエル?今日は髪結んでないのか?珍しいな」

「あー…いや、なんか…起きたらいつもの髪紐がなかった」

「は?」

「俺もさっき部屋で今のお前と同じ顔してたわ」


ため息と同時に、肩にかかっていた髪がさらりと背中へ落ちた。男性にしては長いそれは、普段ならば頭の後ろの高い位置で括られているもの、なのであるが。今朝はさしずめ風に揺れるレースカーテンの如く、彼のため息で簡単に靡く位置に長く伸ばされていた。顰められた彼の表情に似合わない、女性的なシルエット。

随分と熱烈なファンじゃあないか。くく、と小さく笑いながらそう呟いた黒髪の彼に、長髪の彼は自分より少しだけ背の高い相手をもう一度じとりと眺めた。小さいマゼンタの瞳が、呆れたようにひとつ瞬く。


「幹部の、ましてや俺の部屋に自由に入れる奴なんて一人しかいないだろ!」

「まぁそうだよなぁ…彼奴はまだ起きてきてないのか?」

「あ、お前のとこに行ってんのかと思って来たんだけど、違ったのか」

「昨日の夜から見ていないな。私室にもいない、俺の部屋にも来てない、となると……」


そこまで話したところで、黒髪の彼は顎に指を当てたまま悪戯っぽく微笑んだ。

「リー、立ち話もなんだから、部屋で話そう。丁度コーヒーの用意がしてあるから、……一緒にどうだ?」



一体どういう状況なのだろう。アプフェルは何回目かも分からないこの疑問に頭を再び傾げた。


「何か言うことは?」

「……通信無視してごめんなさい」

「何のための通信機なの?反応してくれなかったら、こちらも動けないんだからね」

「はい…」


目の前には、正座をして小さく縮こまるラプンツェルの姿。そしてラプンツェルと向かい合うように、とはいえラプンツェルが座っているため幾分高い位置から見下ろす形にはなっているが、青い衣を纏った少女が仁王立ちになっていた。衣と同じ深い青色を閉じ込めた瞳が、呆れたように細められる。アプフェルは、座らされた椅子から地に届かない足を揺らすのをやめ、むずむずした気持ちでその光景を眺めていた。


アプフェルとラプンツェルは、急に倒れ込んだ青年を抱えながら森を抜け、ラプンツェルの案内でこの建物に駆け込んだ。単に建物…というには些か不自然な部分はあったが、実際今は外気から遮断された室内にいるわけなので、まぁ、建物では一応あるのだろう。何よりアプフェル達は必死で森を抜けて駆け込んだので、じっくり外観を眺める暇など存在しなかったのである。


ラプンツェルが軽々と背負って運んでいたくだんの青年は、現在別の部屋で処置を受けているらしい。白と薄い水色で占められた、うっすら薬品の香りのする部屋であったから、恐らく医務室のようなものであろう。曰く、きちんと息があり、目立った外傷も発熱も無かったことから、しばらく休養すれば回復するだろうとのこと。後は詳しい者に任せてとりあえず帰還報告を……と、やや表情を曇らせたラプンツェルに連れられてこの部屋に入ったところで、例の青い少女が待機していたのである。


「……もう、今回はこれくらいにするけど。次は本当に一人行動にするからね?」

「う~~…ごめんなさい…ありがとぉキールぅ…」

「はい、じゃあほら立って。……次はそっちね」

「う?」


足が痺れたと嘆くラプンツェルに手を貸しながら、青い少女の瞳がすい、とアプフェルに向けられた。空の青よりは、湖の青。高く広くではなく、深く静かな青い瞳がアプフェルを捉え、困惑したようにほんの少しだけ細められた。


「ええと……記憶喪失、って」

「…」

「……じゃあ、その……私達のことも、分からない……って、こと?」


何と返そうか少し迷ったが、結局こく、と小さく頷いてみせる。相変わらず床に届かない足が頼りない。

部屋に小さな沈黙が下りた。

たっぷり五拍ともう少し。キール、と。不意に呼びかけたのは、また見知らぬ少女であった。


「そんな風に聞いたらダメ。困ってるでしょ」


青い少女の後ろから、赤い衣がふわりと躍り出た。その姿は、遠目からでも小柄な体躯なのが分かる。歩きながら揺れる、胸元からふわりと広がった柔らかそうなワンピースと、大きな赤いリボン。幼い顔立ちに似合わない大人びた口調で、キールと呼ばれた青い少女を窘めるように頭を横に揺らした。


アプフェルがじっと見つめていることに気付くと、服と揃いの赤い瞳を眠たそうに瞬かせながらほんの少し、本当に少しだけ、微笑んだ。少なくとも、アプフェルはそう思った。

青い少女は口をへの字に曲げて、バツの悪そうな表情をしている。ラプンツェルは先程までの表情をころりと変え、嬉しそうな顔をした。


「ね。えぇと……アプフェル?…エマ達のこと、怖い?」

「お怖い……は、ないよ?ラプンツェルがいるから、きっとお友達ね?」

「ならよかった。そう、エマ達はラプンツェルの友達なの。アプフェル、忘れちゃってるから、怖いかなって思ったのだけど。大丈夫そうね」

「うん。……えーと、ごめんなさい、あなたのお名前は?」

「エマニュエル。長いからエマでいいわ。またよろしくね、アプフェル」


青い少女の隣からアプフェルの近くまでゆっくり歩み寄った彼女は、エマニュエルと名乗った。よろしく、と差し出された手は、何故だかセピア色の袖の長い服で包み隠されている。少し不思議には思ったが、自分もパペットで手を包んでいる訳なので、何も言わずにその手にちょん、と触れた。ややあって、エマニュエルの袖が不自然に動いたかと思うと、アプフェルのパペットをもそもそと探るように張り付く。奇妙な冷たさと動きにさすがに驚いたアプフェルが手を引こうとするより早く、エマニュエルがやめなさい、と小さく呟いた。途端、動きはぴたりと止まり、嘘のように大人しくなる。


ぱちぱちと瞬きながら呆けた顔のアプフェルの隣で、ラプンツェルがくすくす笑っていた。一方のエマニュエルは何事も無かったかのように、青い少女を仰ぎ見る。はっとしたように、小さく息を飲む音がした。

青い少女が、コスモス色の長い髪を揺らしながら、ゆっくりと歩み出る。


「…………え、と」

「アプフェル、だよ、キール」

「……そう、はじめまして、アプフェル。私はキルヒエル。ここの……八龍城の、まとめ役のようなことを、しています」


ラプンツェルに促されて、青い少女…もといキルヒエルが、少し困惑を残したまま、微笑んだ。そしてそっとアプフェルの手を取り、優しく、けれどどこか恐る恐る、撫でた。


「……キールって呼んで。皆、そう呼ぶから」

「…みんな?」

「そう。ここにいる人達は、ほとんどね」

「他にも、いるの?キールとか、ラプンツェルみたいな、お人達が?」

「そうだよ」


ここは皆の家だからね、と。キルヒエルが、先程よりも少しだけ幼く、得意気に笑う。アプフェルはそれを見て、ほんのり肩の力を抜く。

扉の向こうから、何やら明るい足音が近付いてくる気配がした。

苦悩の林檎

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