02 「不穏なカノン」

数拍、沈黙があった。

先に口を開いたのは、ラプンツェルだった。


「……うそ」


目を見開いたまま、ぽつりと落とすように呟かれた一言。ラプンツェルの視線がゆらゆらと揺れて、ゆっくり下に落ちた。アプフェルの腕を掴んだ両手は、きっとまだ温かい。向かい合った二人の鼻先の間、少し冷たくなった風が控えめに通り抜けていく。

次に口を開いたのは、アプフェルだった。


「…ラプンツェル、わたし、お悪いことしてしまった…」


そうだ。ラプンツェルは、せっかく自分を探しに来てくれたのに。何故自分は、彼女のことを忘れてしまったのか。あそこまで強烈に「覚えていた」記憶はあると分かっているのに、何故、忘れてしまったの。

頭は痛くない。怪我だってしていない。手足もあるし、目だって耳だってある。何も失っていないはずなのに、記憶のみがすっぽ抜けてしまっている。


そう、手足……。と、考えた時、アプフェルはふと自身の両腕の違和感に気付いた。


「……?」


ぴく、と、アプフェルが腕を動かした感覚に、ラプンツェルが伏せていた目を上げた。アプフェルは、この違和感の正体が一体なんなのか、服の上からでは気付くことが出来なかった。ラプンツェルの視線は感じていたが、腕をじっと見詰めながら首を少し傾ける。ラプンツェルは、そんなアプフェルの様子を見て、そっと腕から手を離した。


「アプフェル、自分のことも、忘れちゃった…?」


窺うように、ラプンツェルが囁くような声で呟く。目を合わせて何度か瞬くと、ラプンツェルは少しだけ眉を下げて、けれど意を決したようにこくんと一つ頷き、アプフェルの右腕を再び取った。そう、ちょうど、その時である。

ぱき。と。何かが押されて弾けるような、小さな音。けれど、何か、言い表せないような、違和感を伴った、異音。

風向きが変わった。


「……何か来る、アプフェル、離れちゃダメだよ」


さっと顔色を変えたラプンツェルが、アプフェルの腕を更に引き寄せた。そのまま近くの大木の近く、青々とした茂みの影に二人で音を立てないように身を隠す。ラプンツェルが姿勢を低くして、そっと茂みから辺りを窺っていた。アプフェルの目には何も見えなかったけれど、ラプンツェルは何かの気配を感じているようだった。


「……ラプンツェル」

「しーっ、ねぇアプフェル…音、聞こえない?……ほら」


ギリギリまで声をひそめたラプンツェルが、先程まで二人が立っていた場所の奥、斜め後方に視線を滑らせた。やはり何も見えなかったが、なんとなく同じ方向を追いかけて、そっと目を閉じる。音。……音。ぱき、ぱき、と、何かを踏んだような、微かな。けれどやはり、違和感があった。


「何か…足音……?」


でも、なんだか変なお感じ、首を傾げながら呟くと、隣でラプンツェルが小さく頷く気配がした。


「そう……たぶん、人型じゃない…」

「?」

「……もしかしてとは思ったけど、それも忘れちゃった…?」


少しだけ、またラプンツェルは悲しそうに眉を下げた。それから至極小さな声で、早くアプフェルを見つけられてよかった、と呟いた。強がるようにきりっと再び前を向く。何も言えずアプフェルが視線を落とすと、ラプンツェルはそっと腕に力を込めて、大丈夫だよ、と囁いた。


「ね、アプフェル、私が絶対守ってあげるから。大丈夫」


……ずっと前にも、この笑みを向けられたような気がする。アプフェルはぼんやりそう思った。不思議なことに、ラプンツェルが大丈夫と言うと、大丈夫な気がしてくるのだ。たぶんこれは、昔、そうだったのだろう。

無くした記憶の中で、きっと。

アプフェルの視界に、ふわふわと揺れる柔色の陽光が見えた。強く、弱く、不規則に明滅するそれらは、まるで水泡のように下から上へ流れては弾けて、きらきらと光っている。金色が揺れて、微かな沈丁花の香りがした。

これは一体なんだろう。よく分からないけれど、これは、いつか自分が見た光景だ。何故だか、そんな確信があった。これが、失くしてしまった、自分の記憶なのだろうか?


「ねぇ」


その時。二人は不意に後ろから肩を叩かれた。驚いたように最初に振り返ったのはラプンツェル。反動で揺れた彼女の金色、それを追うようにアプフェルも肩越しに振り向く。

スローモーションのように、光の景色から視界が変わる。アプフェルは一瞬、自分の髪がもう一度揺れたのかと思った。


「そこにいたら危ないと思うな、もっと遠くに隠れないと」


そう錯覚するほど、振り返った先に見えたのは、自らと同じ真っ赤な髪。菫色の瞳。そして、一対の白い翼と逆光を背に受けて柔らかく笑う、見知らぬ若い青年であった。



同刻。

少女は地図と羅針盤のような機械を交互に見ながら、頭を悩ませていた。定期的にぴこん、と小気味よい音が聞こえるそれの、揺れながら小さく光る緑の点を見つめて、眉間の皺を一層濃くする。


「北西の方向……距離はだいたい2kmってとこかな……」


呟きながら地図の上で滑らせた指に、ゆらりと影がかかる。


「付近に神力の乱れがあるみたい」


赤い袖口に隠された指先を地図の上に。恐らく指しているのであろう部分には、確かに波長の僅かな揺らぎが目視出来る。


「この乱れ方は、天使じゃない。きっと怪物。しかも、かなりギリギリの」

「分かってる。はぁ……やっぱり一人で行かせるんじゃなかった……」

「大丈夫。ラプンツェルだって弱くない。自分一人の身くらい守れるよ。でも、それよりも心配なのは……」


肩口で切りそろえられた銀髪を揺らして、赤い袖の少女が地図を覗き込む。それを追うように桃色の髪の、悩ましげな表情だった少女が立ち上がった。意思の強そうな青い瞳をひとつ瞬かせ、手元にあった小さな機械にそっと声を吹き込む。


「……ラプンツェル。今あなたがいる場所に、怪物が近付いてる。気を付けて」



「一応聞いておきたいのだけど、お嬢さん方はこの辺りに詳しかったりします?」

「えーと、はい、私は詳しいかもです!」

「そっか~、じゃあ申し訳ないんだけど、案内頼んでもいいですか?俺、この辺りは初めてで土地勘が無くてね……」


一方その頃、アプフェルとラプンツェルと、そして先程現れた謎の青年は、森の中を走り抜けていた。

否、走り抜けていたのではなく、迫り来る何かから全速力で逃げていた。「何か」というのは、まさしく言葉の通りで、その姿は視認できておらず、ただ後ろから迫る夥しい量の足音とその足音とはちぐはぐな不思議な気配、無理やり木々を薙ぐような異音だけがその「何か」の全てであった。


「あっそこ!右です!」

「右ね、了解」

「アプフェルこっち!手貸して!」

「うん」


ラプンツェルがアプフェルの手を取って、少し背の低い茂みを軽やかに飛び越えた。その後ろで同じように茂みを飛び越えた青年が、背中を向け二人を先に行くようにと手で指し示す。上半身を僅かに捻るように腰を低く落としながら、肩越しに振り返った彼が少しだけ笑った。


「レディーファーストなのでね」


ラプンツェルが一瞬躊躇うように足を止めたが、すぐに小さくお辞儀をぺこりと一つ。アプフェルに向き直り、行こ!と手を引いた。

そこから少し走った先に、蔓性の植物が巻きついた大きな枯れ木が横たわっていた。座り込めばちょうど隠れられそうな窪みがあり、ラプンツェルはその影にするりと身を隠す。手を引かれながら横にアプフェルも座り込み、蔓の隙間から走ってきた方をそっと覗いた。彼はまだ追いかけてきていないようだ。先程まで迫っていた、異様な気配も今はない。

その時、隣のラプンツェルが小さくあ、と声をあげた。


「?」

「うわどうしよ、キールから通信入ってた……ああ~~ごめんっ、私もアプフェルも無事ですぅ…うん……そう、多分怪物、異型タイプの……え?いや追いかけられて……」


小さな機械に向かって必死に話すラプンツェルの頭上に、不意に影が掛かった。はっとしてアプフェルが見上げると、ラプンツェルとアプフェルの頭上をゆうに飛び越えたそれは、黒い外套と白い翼を翻しながら、すとんと目の前に降り立った。白い羽が風にふわりと舞う。赤い髪と金の髪紐を揺らしながら振り返った彼は、最初と同じような、人好きのする柔らかい笑みを二人に向けた。


「無事に撒けたみたい。助けてくれてありがとうね、お嬢さん方」


そう言ったかと思うと、彼の体がぐらりと横に傾く。そして二人がお兄さん!と叫ぶより早く、そのまま、彼はゆっくりとその場に倒れ込んだのであった。

苦悩の林檎

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