01 「ふたり」

それは、天の上でも地の下でも、生者の国でも死者の国でもない、不思議な世界。

便宜上「国」とだけ呼ばれるそこは、一対の翼を持つ「天使」と、翼を失った「怪物」が対立する、どこまでも理不尽で平和な世界だ。


誰が言い始めたのか、「創造主である陛下は、背中に一対の翼と、自然の力を持った天使のみを愛しているのだ。だからそれを失った異端である怪物は正しくない」と。


両者は永く対立していたけれど、ある時そこに「みっつめ」が現れた。嫌うべき、疎むべき、憎むべきもの。かつての災厄の象徴、……赤色の髪。


スケープゴートを手に入れた!


だって陛下がお造りになった普通の、多数派の我々は、常に正しいのだから。赤色の髪は、陛下を殺そうとした裏切り者だ。だから、「赤髪」は正しくない。

……本当に?



「また明日、ね」

眩い金糸に、赤い実ひとつ。


……これは、あの時望んでも届かなかった何かを、今度こそ掴む物語なのだ。



例えばの話。記憶を失った人が目を覚ました時、外が真っ暗だったとしても、それが「朝だよ」と言われたら、きっとその人はその言葉を受け入れるのだろう。暗いものが朝で、明るいのが夜、と、普通とは違う覚え方をして、それでもそれが「普通」と認識するのだろう。つまりは、認識というのは所詮全てその程度なのであって、「普通」も、「普通じゃない」も、立場や見方や環境が変わってしまえば、そんな些細なことは簡単に崩れ去ってしまうものなのである。


……夢を見ていた。

ような、気がする。

どこかで聞いたことのある声。近付く足音。風の音。ゆっくりと、本が開く音。林檎の花の芳香に混じってかすかに近付く、沈丁花の香り。さわさわと心地好い音がして、あたたかい手のひらが、そっと頬に触れた。覚えているのは、たったそれだけ。

「……おはよう」



夢を見ていた。

噎せ返るような花の香り。閉じた瞳の上に感じる、穏やかな陽光。さあっと耳元を駆け抜けていった柔らかい風。誰かの笑う声。静かに響く低い声。無邪気な優しい声。あたたかい。ミルク色で埋め尽くされた、瞼の裏で舞う金の糸。

これはなんだろう。


「…ル、……フェル……、…アプフェル!」


ぱちり、と、少女の目は開かれた。途端に弾ける光の粒。雲が晴れるように消えていく声。霧散していくミルク色。金の糸も、いつしか消えていた。俯くように座っていた少女の目の前には、心配そうに顔を覗き込む、丸い目をした見知らぬ女の子。少女が目を開くなり、女の子は嬉しそうににっこりと笑った。


少女はとりあえず、彼女をじっと見つめてみた。白いふわふわのブラウスに黒のリボン、白と黒のコルセット。そこからふわりと広がる新緑色のスカート。そして、大きな丸い瞳。右の一つは、何故か黒い布で隠されていたけれど。そして何より少女の目を惹いたのは、彼女の長い長い綺麗な金髪。腰を越えて地上に降りている、風に揺れてさらさらと流れたそれを目で追って、少女は再び彼女の……隠されていない左の瞳を見た。瑞々しく綺麗な深い緑色。花の香り。それに混じって、微かな果実の香り。


「……いいお匂いする、これは、なんのお香り?」

「え?あぁ、えーとそうだね、あれかな?ほらっ」


金髪の彼女が笑いながら上を指さした。それと同時に、彼女の髪がふわりと揺れた。ぱあっと視界が光で埋まる。眩しさに目を細めながら指先を追って視線を上げれば、豊かな緑色に埋もれる、艶やかな赤色が見えた。何故今まで香りで気付かなかったのか不思議になるくらい、甘い香りをほろほろと零すそれは、真っ赤に熟れた林檎だ。彼女が指す方、上向きに首を反らしてから、少女は自分が凭れていたのはこの林檎の硬い木の幹だったことに気が付いた。そう思うとこの幹からも甘い香りがする気がしてそっと鼻を寄せたが、金髪の彼女が小さく笑みを漏らすだけで、見当は外れていたようだ。


「っていうか、アプフェルってばこんなとこで寝てたら風邪ひいちゃうよ?いくら最近暖かいからって、油断したらダメだからね!」

「あ、ごめんなさい、お暖かい…お日様が」

「…?」

「お日様が、お暖かいからね…」


ぽかぽかと優しく暖めてくれる太陽。じっと見つめていたら、目の奥が六角形にちかちかした。ふるふると頭を振って目を横に逸らして、目の前の彼女を見る。彼女は少し不思議そうな顔をして少女を見つめたが、すぐに笑って少女の腕を取り立ち上がらせた。同時に、服に付いた葉っぱも払い落としてくれる。


「アプフェル、帰ろ?キール達も心配してるよ~急にいなくなっちゃうから」

「帰る?」

「そうだよ~!そんで食堂寄って、今日の夕ごはんなんだか聞いてこよ!それから~」

「……」

「…アプフェル?もしかしてどっか怪我でもした?それとも調子悪い?」

「わたし、わたし……アプフェル…」

「そうだよ、あなたはアプフェル、それで…」


彼女の唇が何かを紡いだ途端、瞼の奥で再び沢山の光の粒が弾けた。そして、スローモーション。きらきら、ゆらゆら、ちかちかと舞うそれが、少女の、アプフェルと呼ばれた少女の、再びミルク色に塗りたくられた世界で一等鮮やかな色を零す。赤、金、緑、紫、赤、赤、赤、赤!

色とりどりの光が一瞬で駆け抜けて、頭の一番遠いところに染み込んでいく。一等強く光った、緑色。ころりと転がった、赤色。


「私はラプンツェル!あなたの親友だよ!」


少女の白いだけのぽつりとした世界に、太陽のように笑った彼女が現れた。

彼女の名はラプンツェルといった。どこか懐かしい名を辿々しく舌で転がしてみると、彼女は同じく懐かしい笑みを返してくれた。どうにも、確かな覚えがある。掴もうとしても、覗こうとしても、嘘みたいにすり抜けてしまうのに。しかし、頭の奥にこびりついて離れない、一番眩しい記憶なのだ。忘れるわけがない、一番奥の、最初の優しい記憶。そう、だったはずなのに。


「……ラプンツェル」

「そう!もー、アプフェルほんとどうしたの?」

「わたしね、わたし、おはじめまして、ね」

「へ?」

「今は、知らない……けど、けどね、名前、お懐かしいって思って。だから、知ってた、…んだと、思う。ラプンツェル。……でも、わたしは、あなたを、お忘れしてしまった…?」


ラプンツェルは、目の前で丸い瞳を限界まで開いて少女を見詰めていた。瞳にあるのは困惑と混乱。けれどそれでも少女の腕をしっかり握る彼女の両手は暖かくて、やはりどこか懐かしくて、そしてどこまでも優しかった。彼女はアプフェルを知っていた。でも少女は知らない。彼女はアプフェルを親友だと言った。それも少女は知らない。迎えに来たラプンツェル。名を呼んで、優しく笑うラプンツェル。ここまで条件が揃えばすとん、と理解出来た。つまり、こういうことなのだと。


「わたし、お大事なこと、忘れちゃったの?」


頭のどこか深いところで、ぱしゃんと赤い粒が散った。その向こうに見えたのは、優しくて懐かしい緑色。


少女の名前は、アプフェルといった。

苦悩の林檎

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